atoiuma’s blog

人生あっという間。マイペースにおもしろく。

会話が仕事になればいい

去年から就活をしている。結果はまだ出ていない。

 

どうしても働いてみたい企業を見つけたのは去年の終わりの話。これはラッキーということで自分ができる最大限をぶつけてみたけれど、惨敗した。

 

それからというもの、そういった企業を見つけることができず、今に至る。

 

せっかくなら面白そうな仕事がいいし、自分が価値を感じられるものがいい。そう思って動いているけれど、どうやらほとんどそういったものはなさそうだ。

 

いっそのこと、「仕事はつまらないもので、それに耐えることでお金という代価をいただくのだ」という考え方に身を浸した方がうまくいくんではないか。

 

はあ。

 

てか、なんで仕事をしないといけないのだろうか。

 

 

 

この世界は分業で成り立っている。みんながスマホを持ち、服を着て靴を履いて生きているけれど、ほぼ誰もそれらを自分で作っていない。誰かが専業としてそれらを作る仕事をしてくれているから、私たちはお金を出すことで手に入れることができる。そうやって私たちの社会は成り立っている。

 

もしもみんなが自分たちのことは自分たちでやることになったらどうなるか。自分たちで食べ物を育て、服や靴を作り、怪我や病気になったら自分で体を切り開き腫瘍を取る。。。圧倒的に不便だし、社会が発展しない。ダメ!

 

だから私たちは働く。何かしらの活動で社会のサービスの維持、向上に貢献する。その対価として、社会サービスを享受できるチケット(お金)を手にいれる。

 

仕事というのは、別に面白くもなんともない。ただ社会サービスを維持、向上させるための作業に過ぎない。その作業を、人間側が適性やら工夫やらで面白がったり苦しがったりしているだけのことだ。

 

だから、「なんか面白い仕事ないかなー」ってのはちょっと違う。自分にあった仕事が作られるのではない。養老孟司さんも言っていた気がするけれど、仕事というのはただそこにある作業なので、自分から合わせていかなくてはならない。そして社会に生きる以上、何かしらをやらなくてはいけないのだ。

 

小学校時代、全員が何かしらの委員会に入らなくてはいけないルールがあった。私は何もしたくなかったけれど、それは許されなかった。だから消去法で、音楽委員会を選んだ。木琴や鉄琴をぽんぽこ叩いて演奏することで、運動会等を盛り上げる「作業」をした。仕事の選択ってのも、このシチュエーションに似ているのかもしれない。私にとっては消去法だったけれど、人によっては立候補してでも放送委員会に入ってアナウンスしたり、代表委員会に入ってリーダーになりたい人もいただろう。「好きなことを仕事に!」ってやつだ。

 

さらにいうなら、「私は今ある委員会でやりたいものが何もありません。でも、夏休み明けからずっとお休みしている田中くんのお家が近いので、毎日声かけに行ったり、学校からのプリントを届ける仕事ならできます」とか言って、確かにそれは人のためになるななんて言われちゃってそれで許されるかもしれない。これは起業ということになる。

 

やりたいことが明確にない人間は、自分の何が人を喜ばせられるか、社会をよく出来るか、人のためになるか、そこらへんにめどをつけて仕事を探すといいのかもしれない。

 

ああ、会話が仕事になればいいなあ。人と会って話をするのが楽しい。こないだもツイッターで知り合ったリトさんと会ってお茶したけれど、すんごく楽しかった。

hirosweets.hatenablog.com

 

でもそれはあくまで私が楽しいのであって、人の役には立っていない。仕事として成立していない。

 

「どうやったら貢献できるか」という視点への移行が重要任務っぽい。なかなか難しそうだ。。。